和歌山半周ツアー(神武さまツアー)

2015年4月18日、19日に、紀伊半島半周ツアーに参加しました。

企画立案は、NPO法人アーストラストです。

ツアーの話を聞いたのは、2月の初めごろだったと思うのですが、なんとなく気になっていました。その時点では参加すると決めていたわけではないのですが、巡回するルートが神武の東征と同じようなルートであり、立ち寄り場所もそれらに関係するような場所(神社)だということでした。それについては最後の方に書くとして、先にあったことを列挙してみます。

 

2月中旬に和歌山で開催された醤油作りのイベントに参加した時に、4月のツアーへの申し込みを行っておきました。なぜだか行かなければならないという気持ちがあったからです。この時の、和歌山行きは徳島側からの往復になりました。南海フェリーに乗って往復したのですが、往きは高速を降り間違えて行き過ぎ、引き返すことになったので予定していた便には乗ることができず、次の便で和歌山入りをしました。

醤油作りのイベントは午前中に行われて、午後からはNPO法人アーストラストの勉強会があり、講師には精神学協会会長の積哲夫氏も出席されていました。

 

そして3月、大阪でシンロジカルセミナーが行われて、それに参加。同24日には、両親を連れて九州大学の藤野先生が研究している認知薬・プラズマローゲンの話を聞きに行きました。現在、400人態勢での治験段階で、まだ薬としての認可は下りていませんが、食品としてならプラズマローゲンは入手できるので、両親も納得して飲み始めることにしました。

脳力が衰え始めてくると、判断と決断力が低下します。老齢になった両親の内にも猜疑心も出てきて、その感情を受け止めなければならない私の方にも揺らぎにも似た迷いが出ていました。しかし、両親を説得して九州まで連れて行き、私にできる最大限の方法で対処したことにより、これからの生き方について学ぶことができました。

何を指針に生きるのかということです。

 

魂というものがあり、肉体を亡くした後にも魂は存在するとするならば、そして生きてきたことの内容(生きざま)を、死後に問われるのだとしたら、私の周りの人間がどうであるかということは、実はまったく意味がないのです。

問われるのは、自分自身がしたことであり、思ったことであり、口にしたことであるからです。どのような姿勢で生きたのかが問われるだけであり、私の外側で起こることは私の内面の反映にすぎません。だからそれに対して反応する必要も、実はないのかもしれません。

私は4人の親たちと関わっています。

これからも、感情的な問題やその他の問題も出てくると思いますが、親たちと同じ層に存在して、それらを解決しようとすると軋轢が生まれますが、もっと広範囲に考えられる位置から親たちの言動を受け止めることで、軋轢は最小限になります。

実母には一応伝えました。

「私は魂の存在を信じているので、肉体が亡くなった後も存在し、先にお母さんが死んだとしても、また再会して生前の生き方を問われるので、あなたを騙すようなことや欺くようなことはいっさいしません。もし、心の中に私に対する猜疑心が生まれてきたら、いま私が伝えたことを思い出してください」

 

魂の存在を信じていない実母にとっては、「何を偉そうに…」という感慨だったようですが、少しは心の中に残ってくれたかと思います。

 

4月11日、12日に、九州・大分へ行ってきました。

大分市では、積哲夫氏によるカウンセリングが毎月、実施されています。

場所は、シンロジーラボ大分です。大分駅からタクシーに乗って700円ぐらいで行けます。今回は、11日に『記紀は時空の設計図』という対談本の収録に立ち会わせていただくこともできました。かなり、知識が増えて、頭の中の整理もできました。

その時に積先生に確認したのは4月の和歌山半周ツアーのことです。これまで光文書にかかれている、よみがえった特攻隊の方や、西南戦争で戦死した方が、世界を回って神武の東征を再現していたのですが、それは今回のツアーを実施することで終結するということです。「きっと、そうなんだろうな」と漠然と思っていたのですが、はっきりと確認できました。

これでなぜ、このツアーに参加したかったのかの理由がはっきりしました。

私の魂の中核にいる神性は、そのことを予め知っていたのだと思います。

 

4月12日のカウンセリングでは、自分自身の問題点がはっきりと浮き彫りになったので、それについて考察を深めてみたいと思います。

私の感想としては、

「人間って、なかなか単純には物事が解決しないようになっているということね。まあ、それでも人類の長い歴史から考えたら、ひとりの人間の一生内で解決できるのだから最短コースともいえばいえるかも」

でしょうか。

これまで精神学を10年近く学んできましたが、それはいうなれば新しい知識をきちんと理解できる準備期間のようなもので、それだけ前に進まさないように意識に何重にもシールドがかかっていたということです。それは自分自身でつかんだ思い込みであったり、他者から刷り込まれた常識という名のプロテクトであったり。年齢が高い分だけ蓄積物が多いので、それを外していかなければなりません。人間は気がついていないだけで、かなり【傲慢】なのです。

ただし、時代のステージが変わったので、これからはこれまでよりも簡単に理解できるし変化できる位置に来ています。

 

まあ、私の年代で、精神学までたどり着けて、これまでにいろいろなことがあったけれどもあきらめずに最後まで頑張る決断をしているということは、私の人生にとしては上出来だと、自身では思っています。あとは、残りの人生で形になる結果を出していくことです。

 

そして迎えた4月18日、19日の紀伊半島半周ツアーです。

別名:神武さまツアー。総勢29人の参加になりました。

18日は、和歌山駅を出発して、熊野本宮旧社地 大斎原(おおゆのはら)へ行きました。

熊野本宮大社はかつて、熊野川、音無川、岩田川の合流点にある「大斎原」と呼ばれる中州にありました。当時は約1万1千坪の系内に12社の社殿、楼門、神楽殿があったそうです。ところが明治22年に大水害があり多くの社殿が流出したために、水害を免れた4社を現在の熊野本宮大社がある場所に遷座しました。その大斎原へ先に参拝しました。

大きな鉄の鳥居があるのですが、そこではなくて道路沿いの古い木の鳥居がある場所から参道に入っていき、積哲夫先生が最初に参拝し、アーストラスト代表の高田弘子さんが参拝し、あとは順次、参加者が参拝していきました。

そのあとに、500メートルほど離れた場所に移されてある熊野本宮大社に参拝したのです。お社からは神気が立ち上り、すがすがしい気持ちがありました。

参拝は、全部で4つあるお社の左から2つ目。速玉之男神様が祀られた社殿です。そこに最初にお参りしてから、順次、他の社殿もお参りしました。

 

参拝が終わってから、新宮へ抜け、鳥羽に行き宿泊です。

温泉だったので、心も体もゆったりしました。

翌日は、午前8時半出発で、伊勢伊雑宮(いざわのみや)へ行きました。伊勢神宮の毎朝夕、供するご飯を炊くためにこのお宮の近くでは、伊勢神宮直営のお米が作られていました。

2013年が伊勢神宮の内宮外宮の20年に1回の遷宮だったのですが、伊勢伊雑宮は2014年に建て替えが起こり、白木も輝くばかりの新しいお宮になっておりました。そこでも、参拝が行われたのですが、白木のお宮に陽炎のように神気が立ち上っているのが感じられたのです。

 

そして最後が、橿原神宮でした。

橿原神宮は日本書紀において、日本建国の地と記されて場所で、明治23年に明治天皇により創建されました。

最終知識には、天武の御霊を神武の御霊として、橿原神宮に立てた話が記されていますが、2000年に成立した最終知識から15年の歳月を経て、ようするにタイムラグを経て、橿原神宮に神武の新しい光が立ったのです。

 

私はそれを見届けに行きました。

きっとこのことは、生涯の記憶として残ることでしょう。

 

橿原神宮参拝のあと、希望者のみ、畝傍山に登山しました。

片道30分ほど、なだらかな登りが続きます。万葉集にも記されている畝傍山は、橿原神宮のすぐ後ろに鎮座しているのですが、頂上に少し開けた広場に到着した時に、積哲夫先生が「畝傍山に光の柱が立った」と説明してくれました。

「みんなで登ったからですか?」と聞いた私に、いつものように「それは秘密です」といって、またみんなで山を下っていったのです。

 

この3月、4月、積哲夫先生に質問するたびに「それは秘密です」と言われ続けてきましたが、それは精神界も動いてくれて得られた結果であり、文字通り秘密なのでしょう。

 

そういうわけで、5度のイワト締めで閉まったイワトは、2015年にすべて開かれたそうです。とくに神武天皇で閉まったとされたイワトは、未来への扉だったので、今回その扉があいたということは、これまで動かなかったものも動き始めて、世の中が変わっていくということです。

 

それだけに変化も早く、見極めながら成長していかなければなりません。

ブログにも書ける情報は出していくつもりです。