富士山山頂に立てました。

8月22日(木)、23日(金)、24日(土)の3日間、静岡県に行っていました。23日正午過ぎに、無事に富士山頂に立てました。これはその時の、登頂様子を書いたものです。
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7月7日に続いて、今年2回目の富士登山を決行いたしました。
前回の7月7日は富士吉田ルート、今回は富士宮ルートと、登る登山道を変えての挑戦となりました。結果を先にお伝えすれば、7人で登頂して、7人全員が頂上に立てるという快挙を成し遂げることができました。みんなを引率していってくれたヨタ君には感謝の気持ちでいっぱいです。

現在はchiisakimono(ちいさきもの)、そして当初はfujinomiya(ふじのみや)と名乗っていた私の小宇宙のお話が、富士山の頂上に立つことにより、ひとつのたましいのステージが終わり、次の新しいステージが始まるのだと認識しております。
それだからこそ、今年中に富士山の頂上に、私は到達したかったのです。

ところで、7人で臨んだ富士登山ですが、なかなかイベント満載の3日間となりました。プライバシーもあるので詳細は書かないつもりだったのですが、本日、安否確認で大阪の師匠より電話をいただき、かいつまんで事情を話したところ「面白いからブログに書いたら…」という、お言葉をもらいました。当事者にとったらまだ生々しい記憶ですけど(笑)。

参加者の名前を仮名にしても、解る人にはバレバレですけど。まあ、どっちでもいいかぁ。

●822日(木)午前6時半ごろ。

広島からクマモンとケイコさんの2名。岡山から矢吹和子さんが1名。香川県からは私(小野真子)が加わり、計4名が吉備SAで集合して1台の車に乗り合わせて静岡県富士宮市に向かって出発。クマモンは、数時間前の午前2時まで仕事だったのでほぼ完徹状態。和子さんと私で運転を交代しながら東を目指します。後ろの座席では疲れ切ったクマモンとケイコさんが爆睡状態。私も当日は午前3時半に起き、420分発の宇野港行四国フェリーに乗船して岡山に来ていたので、助手席に座っているときは半分眠っているという感じでした。車は順調に東名を走り、午後4時には富士宮市内へ到着。まずは明日の登山の成功を祈って、浅間大社本宮へ参拝に行きました。雨が降る中、参拝して本殿にご挨拶をすると、雨が止んで晴れ間が見えてきました。


「明日はきっとみんなで頂上に立つことができる…」と思えたような現象でした。

浅間大社の中にある霊泉でペットボトル水を2本買い求めました。ヨタ君が、富士山頂上にある『銀明水』『金明水』が湧き出している近くに、聖別した浅間大社のお水を撒いてきたいと言っていたからです。銀明水は山頂の浅間大社奥宮の近くに、金明水はお鉢巡りの途中に、湧水場所があるようです。

途中でドラッグストアに立ち寄りました。クマモンが『携帯酸素』を購入したいと言ったからです。売り場が広めのドラッグストアには、何種類かの携帯酸素が売られていました。さすが登山客の多い土地柄ならではの品揃えです。携帯酸素を選び終えたクマモンは、今度は膝サポーター用品のコーナーに。

 

「Mサイズじゃなくて、Lサイズでしょう」


などと、私はよけいなことを言いながら、サポーター選びを手伝っていたのですが、いそいそとレジに向かうクマモンの後姿を見送りながら、ケイコさんが「絶対にサポーターなんかに頼らないって豪語していたのに、なんで急に買う気になったの?」と、クマモンの心変わりを納得のいかない不審げな様子。まるで、あくる日の状況を予見していたような、この行動が、あとからみてみればクマモンに訪れた窮地を救うことにもなるのですが…。

私たち5人は、宿泊を予定していたスーパー温泉『富嶽温泉花の湯』に、午後5時ごろ到着。前後して、千葉からは高速バスでキヨミさんが到着しました。

夕食をみんなで食べてから、午後8時ごろに就寝。ケイコさんとキヨミさんは、大勢が一緒に眠るリラクゼーション室で。私と和子さんとクマモンは、個室になっているシングルの部屋で眠ることになりました。ところが、このシングル部屋、空調の関係で天井部分が格子状態になっており各部屋がつながっています。だから音が聞こえやすく、2部屋離れたクマモンのイビキもライブで聞こえるという遮音性の低さなのです。事前にわかっていたことなので、こちらも対抗策としてマイ耳栓を用意していたのですが、それでも眠れない。空調も甘く、暑くて寝苦しい時間が過ぎていきます。結局、前回の77日と同じように一睡もできないまま午前2時の起床時間になりました。

あきらめて、身仕度をして1階ロビーへ降りて行ったのです。

 

823日(金)午前3時半ごろ。

 

富士登山の先導役のヨタ君と、岐阜の第三の男さんは、集合場所である『水ケ塚公園』で合流予定でした。第三の男さんは、高野山の遍照光院で行われた『光のワークショップ』後の2次会で初めて富士登山の話を聞いて「富士山の裾野で生まれ育ったのに、富士山には一度も登ったことがない」ということに気がついて、急きょ20日(火)に「参加したい」と私に連絡をしてきたのです。

 

「…彼は、何の用意もしていないのに大丈夫!?」

 

という一抹の不安がありました。

 

その不安を形にしたように集合場所へと現れた第三の男さんは、登山靴ではなくスニーカーを履き、登山服ではなく作業服姿で、来る途中にホームセンターで購入したポンチョ型のレインコートを詰め込んだナイロン製の小さなナップザックを背負って立っていたのです。

 

ホントウニダイジョウブデスカ・・・・というのが、その場にいたメンバーの統一見解だったのですが、実はこの第三の男さんは非常に強力な『お助けマン』の役目として、メンバーに加わったのだということが、徐々にわかってくるのです。
ヨタ君も合流して、総勢7人。
2台のタクシーに分乗して、富士宮登山道5合目を目指しました。
25分ほどで 5合目へ到着。標高2400メートル。身体を高所対応させるため、事前にコンビニで買っておいたオニギリなどを朝食として食べて、約1時間を5合目で過ごしました。ゆっくりと空が明るくなってきたのをみながら、クマモンの携帯から流れる『ラジオ体操第一』の音楽に合わせて、7人で輪になってラジオ体操を行った後、登山道へと出発したのです。

 

眠れなかったこともあり、私はすでに鈍い吐き気を感じていました。高山病に掛かりかけているのではないかという不安を感じながら「今日は頂上へたどり着けるかなぁ…」というマイナスな思いも湧いてきていたのです。方向転換しようと首を回すと目眩もあり、意識上に先行きの心配が現れては消えていきました。

 

登る速度も一番遅く、最後尾にヨタ君がついてくれて、小さな歩幅でゆっくりゆっくりと登っていったのです。

 

前回の富士吉田コースと富士宮コースの違いは、その登山道の長さにあります。2キロほど富士宮コースの方が短いのですが、その分、傾斜はきつくなっています。また上り登山道と下り登山道が別になっている富士吉田コースとは違い、上りも下りも同じコースになっているので、狭い山道で下りの人とすれ違う場合に譲り合って通らなければなりません。その分、ロス時間ができるのですが、これも考えようによれば譲り合うことで楽しいコミュニケーションができるという利点も挙げられるのです。

 

天気も上々でした。晴れているのに、そよそよと風があるので暑くもなく、汗もかかずに、気持ちよく登れたのです。

 


「こんなにいい天候に恵まれることは少ないんですよ」とヨタ君

 

7合目ぐらいからは、眼下に雲海が広がって、富士山の醍醐味を満喫させてくれたのです。
景色はよかったのですが、私の体調はやっぱりいまいち。少しでも負担を減らそうと厳選したはずの荷物さえも重たく感じていたのです。その様子を見かねたのか、第三の男さんが自分のナップザックと、私のリュックを取り換えてくれたのです。一挙に背中が軽く感じられました。上りはじめに感じていた目眩も、だんだんおさまってきて、登山を始めてから2時間後ぐらいには、身体が標高に順応してきたようで、上ることが苦にならなくなりました。前回は持っていなかった携帯酸素も、今回は持参して、早め早めに吸引したことがよかったのかもしれません。

 

 

 

私の体調が回復してくるのと比例して、クマモンが頭痛を訴え出しました。同じように携帯酸素を吸っていたのですが、だんだん症状がひどくなるようで、クマモンは頭痛薬を飲みながら山頂を目指したのです。他のメンバーには高山症の症状は出ずに、着々と頂上に向かって歩いていきました。

 

 

 

ところが、9合勺(標高3590メートル)まで来て、あと30分も歩けば頂上に立てるという位置に来て、急に天候が変わったのです。山頂から霧のかたまりが降りてきて暗くなり、下から雷鳴が聞こえてきました。時刻は午後1時ごろでした。

 

山の天候に詳しいヨタ君は、「山の雷は下から上へと上がって来るので、ここにいたらたいへん危険です。早く頂上の山小屋へ避難しましょう」といい、メンバーは急いで急斜面を登っていきました。風も強くなり、大粒の雨が横殴りに叩き付けてきます。

 

雷の災難にあうこともなく、やっと頂上に到着。少し休憩をしてから、メンバーは次々に浅間大社奥の院に参拝しました。今後の働きなどを、私は心の中で祈りました。

 

せっかく頂上にたどり着いたので、天気が回復するのを待って、火口を一周するお鉢巡りは無理でも最高峰の剣ヶ峰には寄って帰りたいと考えていました。あれだけ晴れていたのですから、また急に天気が良くなることも十分にあり得ると思ったのです。

 

そこへ、頂上のトイレに用足しに行ったクマモンが慌てて帰ってきました。

 

山頂で働く人と、その知人のベテランガイドが出会った時の会話をトイレ内で聞いたそうで、それを再現すると、

 

「いま、案内して登ってきたんな。これから天気は悪くなる一方だから、すぐに降りんといかんで。遅れたら帰れなくなるから、一刻も早く山を下りんといけない。急ぎなさい」

 

というものでした。

 

そのことをクマモンから聞いた私たちも、下山することを決定して、ヨタ君が考えてくれていた御殿場口の下山道に向かったのです。最初に富士宮ルートは、上りも下りも同じルートだとお伝えしました。しかし、雨でぬれた岩場を下るのは危険で、実際に富士宮ルートを下ってきている人が何度も岩場に足を取られて転ぶ様子を私たちは見てきていました。そこで、距離は長くなりますが比較的緩やかな道のりの御殿場ルートを通り、途中で宝永火山の火口周辺を通って、富士宮ルートの新六合目に合流する下山コースを選択したのです。

 

風はますます強くなって、雨は叩き付けるように降ってきます。

 

御殿場口近くにある銀明水の取水口近くに、麓の浅間大社から持ってきた聖別した水を撒きました。残念ながら、天候悪化により金明水の場所まで行くことはできません。心残りですが、頂上の山頂郵便局前でなごみ麹を持った和子さんの姿を記念写真におさめ、急いで全員が下りルートを歩いていきました。

 

すると、クマモンの動きが非常にゆっくりです。

 

3歩あるいては止まり、5歩あるいては休みと、動きがぎこちないのです。
最初は、高山症の症状がひどくなったのかと思いました。確かに、頭痛や吐き気もあるようですが、

 

「あそこにある岩が、ぜんぶ人の顔に見える」

 

というではないですか。

 

詳しく聞いてみると、頂上のトイレから出てきて聞いたことを報告し終わった後、何かのエネルギーがクマモンの体内に入ってきたようで、一瞬で気分が悪くなってきたというのです。ですが、私たちにはなすすべもなく、御殿場ルートの山小屋までたどり着いたら、手持ちのSEKIオイルを塗ってケアすることにして、時間をかけながらノロノロと下っていきました。

 

あとから本人に聞いた感想では、

 

「自分の意思で動いているというよりも、勝手に身体が動いて山を下っていて、それを少し離れたところから、本来の自分の意識(自意識)が見ているような感じだった」

 

ということです。

 

エネルギーに対して反応能力が高いクマモンならではの出来事だったようですが、この時に膝のサポーターを付けていたおかげで足取りは比較的しっかりと運ぶことができたのです。

 

御殿場ルートの八合目にある『見晴館』は、小屋の木材跡だけが残る廃屋になっていました。

 

元々、御殿場ルートは登山者の通行が少ないので、いつからか休業したようです。

 

その廃屋の横を通り、その先の山小屋を目指しました。周りは濃い霧に包まれています。しんがりはヨタ君と私、クマモンの3人だけになり、先陣の4人は先に山小屋へ向かっていました。身体に叩きつけるように降っていた雨は、個体の冷たいアラレに変わり、顔や手にあたると痛みが生まれます。細かな砂塵を含む横殴りの風で目を開けていられないなか、5メートル先は見えないような乳白色の霧のなかを進んでいきました。

 

私の心の中に、怒りがありました。相手が何者であるのかわかりませんが、何か悪意のようなものを察知したように思いました。口に出して「いいかげんにしてほしいよね!」とブツブツと文句も言いました。もちろん何の変化も起こりません。

 

思いついて、ヨタ君に九字を切るように頼みました。

 

ヨタ君が切る方向を見定めて、九字を切ると、目の前の乳白色に切れ目ができて青空がのぞきました。

 

「やっぱり、普通の天候やないやんか」

 

そう思ったのもつかの間、回復しそうに見えた晴れ間は瞬く間に元の乳白色に塞がれていったのです。時刻は午後3時を回っていました。

 

 

 

「陽があるうちに山を下りなければ、遭難の危険がありますよね。…命にかかわります」

 


少し顔をこわばらせたヨタ君が、そう言います。

 

ところで、このヨタ君の九字切りを見ていたクマモンは、後日、「崖の上に鹿がいて、それに向かってあっちに行け!とヨタ君がジェスチャーしているのかと思った」という感想を述べて、みんなから大笑いを貰っていました。富士山の八合目に鹿はいないから、ね。

 

次に見つけた山小屋で、取りあえず遅い昼食を急いで食べて、そのまま7人固まって下に向かって降りました。高度が下がったお蔭でしょうか、それともSEKIオイル(秘蹟2)を塗ってケアしたからでしょうか、クマモンの動きも早くなり、かなりの速度で休みなく、『大砂走』と呼ばれる砂の深いルートを黙々と歩いていきました。霧はいっそう濃くなり、2メートル先を歩いているメンバーの姿も見えないほどです。だんだんと一人ずつの距離が離れていくので、声を掛け合って、所在を確かめながら、メンバー全員が離れ離れにならないように気を付けました。最後尾は、足弱の私と和子さん。

 

遅れがちになるのを、お助けマンである第三の男さんがフォローしてくれるように、しんがりに回って付き添ってくれました。宝永火口の横を通る時は、右も左も深い崖で、道幅は5メートルほどです。『馬の背』と呼ばれているこの長い道を、強風に吹き飛ばされないように歩いていきました。休みなく歩いたせいで疲労もピークに達しています。何度か砂に足をとられて横転しました。

 

キヨミさんのリュックを覆っていた赤い雨カバーが、風にあおられて火口のすぐ側まで飛ばされました。それを和子さんが拾いにいこうかどうしようかと迷った隙に、カバーは風に運ばれて空高く舞い上がり、底の見えない火口の下へと消えていったのです。

 

 

 

「下手に拾いに行ったら二次災害になるかと思って動けなかったのよ」と和子さん。

 


捻挫や骨折を一人でも起こせば、全員が揃って下山することが不可能になります。

 

『ケガのないように…』

 

そう祈りながら、濡れた砂で足が滑る下山道を降りていきました。

 

富士宮ルートの新6合目に合流するころには、ライトが必要なほど暗くなってきていました。それから30分後、午後7時過ぎに、シャトルバスの待つ富士宮ルートの5合目レストハウス駐車場にたどり着いたのです。

 

この日は、サポートしてくれた第三の男さんにとって、車についての事件が2つほどありました。でも、その災厄に見える現象はある意味『厄落とし』であり、第三の男さんにとっては大難を小難にするプロセスであったように感じています。

 

不思議なことがもう一つありました。

 

翌日、無事に帰れたお礼を含めて、ふたたび浅間大社本宮に参拝いたしました。その前に、朝食の時にキヨミさんが『富知神社』という神社を以前に訪問した話をしていたのです。すると浅間大社の社務所に、その神社の由緒略記が置かれていました。地図もついてあり、近くでもあったので、「行ってみよう」ということになり、車に乗って探しに行きました。

 

多少は迷ったものの、その神社に到着して、本殿に参拝させてもらったところ、

 


私「この神社はきちんと御祭神がいらっしゃるみたい。どう思う?」

 

和子さん「いらっしゃると思う」。うなずくケイコさん。

 

クマモン「本殿の方を向くと、気分がいいと感じるよね」

 

キヨミさん「よくぞ、いらっしゃった…真の光を、人のもとに届けられよ。と、言葉が聞こえたんだけど。それに富士山のイメージも出てきたの」

 

 

 

この神社には正しき意識体がいらっしゃるということで、全員の意見は一致したのです。

 

和子さんとキヨミさんが「浅間大社のお水を撒いた方がいいような気がする」といい、これも全員一致になり、撒く場所も感じていることは同じでした。
そこで、金明水の場所に撒くはずだった富士山頂までもっていった聖別水を境内の数か所に撒いて、帰ってきました。

 

 

 

【終】

 

 

 

 

 


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